ロシアのウクライナ侵攻で露呈。「地域研究」の由々しき問題性とは【中田考】
ロシアのウクライナ侵攻 その認識における「地域研究」の問題性【中田考:集中連載第1回】
「“安倍総理暗殺と統一教会”で露わになった“日本人の宗教理解の特性”」について、イスラーム法学者中田考氏がBEST TIMESに寄稿した論考【前編】【後編】が話題だ。一方で、ロシアのウクライナ侵攻は「知(学問)の現場」における由々しき問題を露呈させている、と語る。それはいったいどういうことなのか? 宗教地政学の視点からロシアのウクライナ侵攻について書き下ろした書『中田考の宗教地政学から読み解く世界情勢』の発売(10/7)が待たれるなか、今回最新論考全4回を集中連載で配信する。その第1回を公開。
【序.地域研究の問題点】
ロシアのウクライナ侵攻以降、ウクライナとロシアの歴史認識をめぐる議論がマスメディアやSNSなどを通じて研究者だけでなく一般市民の目にも届くようになりました。しかしそれらの言説には大きな方法論的問題があります。ネーション・ステート(国民国家)の枠組を当然の前提とした地域研究の言説です。
筆者はイスラーム地域研究者として、20年以上にわたって地域研究の世界に身を置いてきました(KAKEN: https://nrid.nii.ac.jp/ja/nrid/1000040274146/ 参照)。そこで身をもって知ったのは、「イスラーム地域研究」と銘打ってはいても、その実態は地域研究とは名ばかりで各国研究の寄せ集めでしかないことでした。そこではさまざまな制度、行動、言説の「イスラーム性」が厳しく問われることはありません。イスラームとは無縁なエジプト、サウジアラビア、イラン、トルコ、インドネシアなど現行の領域国民国家システムの中でムスリム国家とされている国々でまかり通っているイスラームの教えに反する政治、社会、経済制度、立法、行政、司法、公共空間で語られる言説が、それぞれの国毎の「~のイスラーム」などの名の下に研究、発表されているのです。
【1.イスラーム地域研究とロシア研究】
そのような意味での地域研究としてですが、イスラーム地域研究とロシア研究には接点がありました。私が研究者としてのキャリアを始めた1980年代後半にはまだソビエト連邦が存在し、ソ連はロシア帝国の継承国家であったため、ロシアだけでなく、ウクライナなどの「スラブ系民族国家」の多くはソ連の構成国であり、ユーゴスラビア、ブルガリアなども東側(ソ連、社会主義陣営)の一部でした。
そのため、日本におけるロシア研究の中心であった北海道大学のスラブ研究センターの研究対象には当時のソ連の一部であったウズベキスタン、タジキスタン、トルコメニスタンなどムスリム国家が含まれており、スラブ研究センターでは、それらの国々の研究が行われていたからです。
スラブ研究センターは2014年にスラブ・ユーラシア・センターと改称しますが、同センターの宇山智彦教授は、カザフスタン、クルグスタンなど中央アジアのムスリム諸国を専門とする代表的なイスラーム地域研究者でもあります。
実は宇山には「ヒズブッタフリール(解放党)メンバーとの出会い」[1]という国際イスラーム主義運動「解放党」に関する報告があります。解放党はイスラーム世界のカリフ制による統一を目標に掲げてアラブ諸国だけでなくトルコ、中央アジアから東南アジアのインドネシアまで広範に活動するグローバルなイスラーム運動ですが、国別に分かれたイスラーム地域研究では方法論的に研究ができないためイスラーム地域研究者には拙稿「イスラム解放党のカリフ革命論」[2]以外に殆ど研究がなく、宇山の上掲報告はグローバルなイスラーム運動に関する貴重な資料になっています。
【2.スラブ・ユーラシア研究】
筆者も「解放党」に関する研究の縁だけでなく、旧ソ連のウズベキスタン、カザフスタンでイスラーム運動の調査を行ったこともあり、宇山を筆頭とする旧ソ連圏の地域研究にも目を通してきました。
イスラーム研究が国別に分かれていたのに対して、ソ連が「一つの国」として存在していた間はスラブ・ユーラシア研究は制度的に相対的に地域研究としての一体性を保っていました。しかしポスト・ソ連期の1990年代に研究を始めた人たちは、イスラーム地域研究と同じく新しく生まれた国家による分断による問題に直面しています。
ドイツと東欧をフィールドとする政治思想史家の上村和秀は宇山の言葉を引いて《カザフスタンやウズベキスタンなどの中央アジアの諸国家は、このような「国民国家」が独立したものです。宇山智彦氏によれば、これら中央アジア諸国では「ソビエト公定民族史の路線を明確に引き継いで」、時にはネーションの歴史をさらに拡大解釈して、国家主導のネーション形成が熱心に進められています》と指摘しています[3]。
【3.公定ナショナリズム】
ベネディクト・アンダーソンによると19世紀前半に先進西欧諸国で成立したナショナリズムは「いくつかの要素からなる規格品のようなもの」となり「モジュール化」しました。それによってドイツや日本などの後発諸国の支配層がそれを「おおまかな設計図」として模倣し、人工的に推進したのが「公定ナショナリズム」であり、これがさらに1世紀遅れて繰り返されたのがソ連崩壊後に新たに独立した中央アジア、スラブ系諸国が国家主導で行ったネーション形成です[4]。
近代国家は、国土、国民、主権を三要素とします。「主権」を有する「ウクライナ人」という「国民(ネーション)」が「ウクライナ」という「国土」に国家を持つことは、当たり前と思うかもしれませんが、実は人類の歴史の中ではごくごく新しい考え方で、18世紀から19世紀にかけての西欧ではじめて成立したものでしかありません[5]。それ以前には「ウクライナ人」という国民(ネーション)も「ウクライナ」という国家(ネーション・ステート)も存在しませんでした。
【4.ウクライナ・ネーションの誕生】
ウクライナに国家ができるのは、1917年のロシア革命後のことで、革命後の混乱の中で、ウクライナ人民共和国、ウクライナ国、西ウクライナ人民共和国などが生まれ、1919年にウクライナ社会主義ソビエト共和国に統合されます。中央アジア諸国について「ソビエト公定民族史の路線を明確に引き継いで」国家主導でネーション形成が行われているように、ソビエト公定民族史の路線にならって「ウクライナ社会主義ソビエト共和国」の継承国家として作られた後発国民国家がウクライナであり、それによって作られたのが「ウクライナ人」です。ウクライナという「国家」も「ウクライナ人」という「国民(ネーション)」もせいぜい百年あまりの歴史しかない「人工物」にしか過ぎないのです。
もちろん、「ウクライナ人」というネーションが百年あまりの歴史しかないとしても、「無」から「ウクライナ人」が捏造されたわけではありません。ナショナリズムの代表的研究者であるイギリスの社会学者アントニー・スミスによると、土地とのむすびつきや血縁、共通の歴史や言語、文化といったエスニック(民族的)な核(「エトニ」)がネーション成立以前にはあって、ネーションはそれを基盤として形成されてきました[6]。「ウクライナ人」にも現在の「国民/ネーション」概念を無理やりに読み込むことができる「エトニ」が存在します。
しかしこうした地縁、血縁、歴史、言語、文化のどれをとっても、現在のウクライナの国民(ネーション)としてのウクライナ全てに共有されるものはありません[7]。それはウクライナに限ったことではありません。そもそも18世紀以前には世界中のどこにもネーションもネーション・ステートも存在しなかったのですからウクライナにネーションが存在しなかったのも当然です。それはロシアも同じことです。
【5.ロシア帝国とネーション】
たしかにロシアの場合、ウクライナと違って「ロシア」の名を冠する国家はすでに16世紀には存在しました。ロシア・ツアーリ国(Tsarstvo Russkoye:1547-1721)、ロシア帝国(Rossiyskaya Imperiya:1721-1917)です。しかしそれは国民国家ではなく、「帝国」であり、帝国が一つの等質なネーションからなる、という意味でのナショナリズムは存在しませんでした。
「ロシアにおいてナショナリズムの定式化が最初に行われたのは19世紀の第2・4半世紀ニコライ一世の時代」です。それがセルゲイ・ウヴァーロフ文部大臣によって定められた「正教・専制・国民性」の帝国統合の理念であり、アンダーソンが言うところの後発の「公定ナショナリズム」です。この官製の公定ナショナリズムの定式化とともに在野の知識人によって文化的ナショナリズムとしてオーストラリア・ハプスブルク帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国などによって抑圧されたスラブ民族の救済者であるロシア民族への和合と同化を説く文化的ナショナリズムのスラブ主義の思想が形成されたのです[8]。
しかし多民族を統合する普遍理念を掲げるロシア帝国にとって、民族主義は異民族の離反を招きかねない危険な思想でもあり、その内容は曖昧なままに留まりました。ロシア帝国は「世俗的」国家や国民的アイデンティティについて明確な概念を構築することなく、ロシア正教による住民の統合を目指しました。そして‟領土”と‟国家(ゴスダルストヴォ)”、つまり‟土地(ポーチヴァ)”への執着が‟血”に対するよりも重要であることを、ロシア帝国の特徴として挙げることができます[9]。
【注】
[1] 宇山智彦「ヒズブッタフリール(解放党)メンバーとの出会い」『スラブ研究センターニュース』季刊2006年冬号No.104(ttps://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/104/news104-essay4.html)。
[2] 中田考「イスラム解放党のカリフ革命論」『イスラム世界』49号(1997年7月) 38-58頁。
[3] 植村和秀『ナショナリズム入門』(2014年Kindle版)183頁。.
[4] 大澤真幸/島田雅彦/中島岳志/ヤマザキマリ『別冊NHK100分de名著 ナショナリズム 』2020年35-36頁。もともとは「公定ナショナリズム」はロシア・東欧史を専門とする英国の政治学者シートン・ワトソン(1984年没)の用語である。石田正治「日本におけるナショナリズムと歴史認識」『法政研究』76巻4号2020年3月10日502頁参照。
[5] 萱野稔人『ナショナリズムは悪なのか』2013年59頁。
[6] 菅野『ナショナリズムは悪なのか』61頁。
[7] ウクライナ語にしても、ロシア語話者がドンバス地方を超えて広がっており、共通の基準とはならない。ゼレンスキー大統領自身がロシア語話者であり、ウクライナ語は後に学んだものである。青島陽子『ウクライナ人戦争の歴史的位相』(スラブ・ユーラシア研究センター・研究員の仕事の前線《ウクライナ戦争特集》2022年4月13日)2頁参照。
[8] 竹中浩「帝政期におけるロシア・ナショナリズムと同化政策」『年報政治学一九九四』1994年63頁参照。
[9] 「ナショナリズム入門」p.178-181参照。
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序 タリバンの復活とアメリカの世紀の終焉
第I部:タリバン政権の復活
第1章 タリバンについて語る
第2章 アフガニスタンという国
第3章 アメリカ・タリバン和平合意
第4章 イスラーム共和国とは何だったのか
第5章 タリバンとの対話
第6章 タリバンとは何か
第7章 タリバンに対する誤解を超えて
第8章 タリバンの勝利の地政学的意味
第9章 タリバン暫定政権の成立
第10章 文明の再編とタリバン
第II部:タリバンの組織と政治思想
第1章 翻訳解説
第2章 「イスラーム首長国とその成功を収めた行政」(翻訳)
序
1.国制の法源
2.地方行政の指導理念
3.地方行政区分
4.村落行政
5.州自治
6.中央政府と州の関係
7.中央政府
8.最高指導部
9.最高指導者
10.副指導者
結語
第3章 「タリバン(イスラーム首長国)の思想の基礎」(翻訳)
序
1.タリバン運動の指導部とその創設者たちのイスラーム理解
2.思想、行状、政治、制度における西欧文明の生んだ退廃による思想と知性の汚染の不在
3.国際秩序、国連、その法令、決議等と称されるものに裁定を求めないこと
4.アッラーの宗教のみに忠誠を捧げ虚偽の徒との取引を拒絶すること
5.領主と世俗主義者の指導部からの追放と学者と宗教者の指導部によるその代替
6.民主主義を現代の無明の宗教とみなし信仰しないこと
7.一致団結と無明の民族主義の拒絶
8.純イスラーム的方法に基づくイスラームの実践
9.政治的制度的行動の方法において西洋への門戸の閉鎖
10.女性問題に関する聖法に則った見解
11.ジハードとその装備
跋 タリバンといかに対峙すべきか
解説 欧米諸国は、タリバンの何を誤解しているのか? 内藤正典
付録 アフガニスタンの和平交渉のための同志社イニシアティブ